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ごあいさつ

今回、このホームページを立ち上げるにあたりまして、私どもの親族である和田義彦が2016年3月25日に永眠(享年76才)しましたことを、まずはご報告いたします。
芸術家として、そして一人の人間としての和田義彦に兼ねてから大いなるご厚情を賜りました皆さまには、遅すぎるご報告となりましたことをここにお詫びいたします。

さて和田義彦は、神主である父・義郎と妻・君子の三男として昭和15年4月に三重県北牟婁郡引本町で産声を上げました。
その後、芸術の世界に導かれて東京芸術大学へ進み、卒業後その稀有な才能に磨きをかけ、国画会会員に推挙され著名な洋画家としてその半生を送って参りました。
後に海外(ローマ・マドリード)での模写活動を経て、帰国後は意欲的に数々の個展を開催してきました。
和田の感性・表現力・技術力に対する評価の高さは、彼の晩年にブータン政府から「内務・文化省芸術顧問」任命を受けたことでも伺い知れます。
私ども親族は、芸術家を貫いた「和田義彦」を強く誇りに思っておりますが、しかしまた同時に、彼が画家として懸命に生きる中での苦境に直面した時期に、充分に支えることが出来なかったことに対して自責の念が生じているのもまた事実です。

ここに、一部ではありますが、和田義彦が残した人生の軌跡ともいえる作品を、改めて皆さまにご鑑賞いただきたい次第です。
どうぞ、洋画家「和田義彦」を偲ぶ意味で閲覧していただけると幸いです。
宜しくお願いいたします。

親族一同
 


和田義彦氏再起個展に寄せて「和田義彦展」

和田義彦氏の西洋古典絵画を踏まえたエネルギッシュで重厚な作品は、日本絵画を見なれた人は消化不良をおこしそうなほどの迫力がある。カンバスという二次元の平面に限定された和田作品の底知れぬ深さや、深海から噴き昇る燃える岩礁(マグマ)のようなダイナミズムは、一体どこからくるのか。奔騰する色彩と、洪水のようにひたひたと迫る圧倒的なパワーは、絵画の素養のない者にも肉薄してくる。

和田作品に描かれた人間群像や動物〈主として犬〉など、それぞれの存在を重厚に描き、そして人生につきまとう喜怒哀楽、明と暗、孤独と虚無、恐怖、不条理、エロス、生と死などを生臭く、ドラマティックに表現する。

私は和田作品から何度も小説のヒントを得た。和田作品には人生の時間と人間存在の根源的なエッセンスが煮つめられているように、私には映る。

和田義彦氏に降って湧いたような事件は、まだ耳目に新しい。真正の作者と名乗って現れたイタリアの画家は、和田氏と親交があり、その個展に際して祝辞を寄せていた。その画家が突如、和田氏の作品に対して自分の作品に酷似しているとクレームをつけてきた。二人の間にどのような経緯があったのか、私は知らないが、構図は似ていても、色彩感覚、パワー、登場人物の繊細な表情、香り、物語性などがまったくちがうとおもった。

だが、事件は和田氏にとって不利に展開し、マスコミに袋叩きにされた。この不幸な事件を乗り越えての初の個展は、和田義彦の復活である。

絵画に限らず、本来、創作は一作一作が一期一会の作品であり、前作を超えなければならない。晴天の霹靂(へきれき)のような事件を乗り越えての和田作品は、「天と地」の大作を含め、出品予定総数約八十点を集めて、和田作品の新世界を開くにちがいない。

およそ創作物の価値は、その作品のみによって問われる。作者や作品制作の経緯などは、作品さえよければどうでもよいという世界である。作品は作者が生み出すものであるが、作品として生まれた瞬間から独自の生命を持つ。優れた作品ほど、その生命と独立性が強く、作者を切り離してしまう。そして、作品が作者を離れて独り歩きして行くことが、作者の栄光なのである。

和田氏の不幸な事件を契機にして、前作をすべて否定し、圧倒するような新しい作品が誕生するであろう。私にはその生命の息吹が感じられる。和田義彦の新作個展は、あらゆる可能性を伴う予感に満ちた空間となるであろう。


(2008年11月24日〜11月30日 東京セントラル美術館「和田義彦展」)作品パンフレットより


絵画の音楽化〜和田北京での挑戦〜 「挽歌:和田義彦展」

人生で重要な出会いが三つある。一は人間、ニは場所(自然)、三が文化である。出会いは時間、空間共に静止してはあり得ない。それも場所や時間の方から移動してくることはない。だが、文化は人と共に先方から移動してくることがある。和田氏とはまさにそんな出会いであった。

まず、和田義彦という人物と知りあい、そしてその作品に触れた私はラッキーであったというべきであろう。和田氏が作品を背負って私を訪れ、そして私が和田氏の作品世界の虜になってしまった。
以後、私の作品と和田氏の作品が合体して、成吉思汗(チンギス・ハーン)の生涯を描いた『地果て海尽きるまで』や、新聞小説『正義の基準』以下の拙作において和田作品と合体した。文字で表現していた私の作品世界が、和田作品によって視覚的(ビジュアル)に再表現されたのである。文字では正確に表現できない色彩と、形象による絵画宇宙に拡大されたのである。

重厚でエネルギッシュな画風は、和田義彦の人生の反映である。その配色と、圧倒的な破壊力を秘めたダイナミックな熱感は、一見、マイルドな和田氏の人柄に秘められている無量の情熱の火照りであろう。

和田氏の作品から犇(ひきめ)き立つドラマチックな群像や、劇場的な構成は、異次元の世界でありながら、現実の街角のドアを開けば、どこにでもありそうなリアリティを感じさせる。和田作品の物語性に富んだ深い謎は、鑑賞者のだれにも心当たりがありそうな現実的な空間に通じているように見える。それも尋常ではない光景でありながら、既視感(デジャビュ)をおぼえるのである。

作者と受け取り手の人生の共通項は、初めての出会いでありながら記憶を刺激し、忘却の瘡蓋(かさぶた)を引き剥がそうとする。
その和田氏がこれから創作されるであろう大作が北京へ移動する。


(2011年3月12日〜4月3日 中国北京 三潴画廊「和田義彦展〜挽歌」作品パンフレットより抜粋)

「洋画家・和田義彦氏の他界」

2016年3月末、洋画家・和田義彦が入院先の病院でひっそりと亡くなった。
和田氏から届いた年賀状には「2016年インド大使館で展覧会が出来ることになりました」との添え書きもあったのだが、まだ活躍が期待できる七十六歳の旅立ちとなってしまった。
聞くところによれば、亡くなる一か月半程前、体調の異変に気付いた本人が自ら救急車を呼び病院に運ばれたのだという。死因は肺炎とされているが、すでに食道がんも患っていたようである。

「和田義彦」、この名前をすぐに思い出せる人が、どれだけいるだろうか。
残念ながら、これを報じるマスコミもほとんどなかったように思う。
奇しくも2016年は、和田氏が受賞したばかりの「芸術選奨文部科学大臣賞」を文化庁から取り消されるという「騒動」がおこってから、ちょうど十年目になる。

当時、和田氏は同賞の受賞前、すでに第25回安田火災(現・損保ジャパン)東郷青児美術館大賞(2002年)や「両洋の眼−新美術主義の画家たち展」で河北倫明賞(2005年)を受賞するなど確実に画家としての評価を高めつつあった。
和田氏は、さかのぼって1971年からイタリアの留学時代にローマの国立中央修復学校で油彩画技法と修復技術を精力的に学んだ。
また、その5年半に及ぶ留学期間中は、ローマを基点に古典画家の研究を重ね、ヨーロッパの巨匠たちの作品の模写を熱心に行っている。
こうした和田氏のヨーロッパの古典絵画を踏まえた良質の芸術とそれを支える類い稀な描写技術は、彼の画業を知る誰もが認める存在であったはずである。
それが2006年降って湧いたような「贋作疑惑」が起こり、本人は盗作を「否定」し続けたものの前述したような結果となってしまった。
いまさらとも思うが、そもそもは、和田氏の受賞対象作品の中に、イタリア人画家アルベルト・スギ氏の絵にきわめて似ている作品があるとの指摘があったことが発端であった。
それが決定的となったのはスギ氏本人から自分の絵とよく似ているとの申し出があったからである。
当時和田氏と親交があり、和田氏が個展を催した際にはスギ氏が祝辞を寄せるという間柄でもある。
盗作の疑いのかけられた作品も、滞欧中親交のあったスギ氏と意見を交わしながら、同じ題材を違った形で表現しようと試みたものであり、あくまでも独自の世界を創造したものだと弁明していた。
他人の作品の存在を隠して構図や主題などを無断で使いながら、それを自作として発表すれば明らかに盗作である。
盗作と指摘された和田氏の作品と真正のスギ氏の作品を比較すれば、確かに構図はよく似ている。
しかし、描かれた人物の繊細な表現や全体の色彩表現は違うともとれる。
作品が類似しているからといって、即、「盗作」と断定することは早計と思うのだが、文化庁は調査の結果、構図、色彩、主題など基本的な点で和田氏の作品はスギ氏の作品と一致するものが多数あり、「盗作と見られてもやむを得ない」との判断をくだし、その受賞の取り消しを決定したのであった。

実際、本当のことは本人にしかわかりないはずであるが、本人が弁明すればするほど問題は和田氏に不利に展開し、その後、安田火災東郷青児美術館大賞の受賞も取り消されることになった。マスコミからは袋叩きにあい、忘れられた存在となった和田氏は、その後何とかこの不幸を乗り越えようと懸命に努力し、悩み迷いながらも自らの新しい到達点をめざして制作に専念していた。しかし、残念ながらその努力が報われることはなかった。

和田氏は自らの活路を国外に求めていた。インド、ブータン王国、中国などの芸術家との交流を広げようと努力し、とりわけブータン王国との交流には熱心であった。その結果、ブータン国王と王妃の肖像画を描く機会を得たり、ブータンの子どもたちと日本の子どもとの合同作品展を自ら主催したりもした。中国での個展もほぼ成功させ、インド大使館での展覧会も開催するはずであった。

ただ、すべては和田氏の他界によって終わった。
和田氏は今、1989年に死別した愛妻とともに生田霊苑の墓地に葬られている。
どうすれば和田氏の霊をなぐさめられることが出来るであろうか。
和田氏のこの世に残した胸の内を思うと、ただただ無念の一言につきる。
合掌

 
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